同社では社員39名のうち34名の障がい者が働いている。主な業務は不燃性一般廃棄物の中間処理であり、廃棄物業界でも全国トップレベルの実績を誇る。その理由は、社員が非常に細かく分別を行うため、選別が終わりリサイクルできない「残渣」が非常に少ない。そして、その残渣の質が良く、最終処分場から下水に流れる水の薬剤もほとんど使用されていないなどが挙げられる。障がい者雇用と廃棄物処理の先駆的なモデルを見ようと、毎年500人近い、廃棄物業界、企業、福祉関係者等の視察や見学者が絶えない。書籍『日本でいちばん大切にしたい会社
4(あさ出版)』で紹介され、「第 5 回日本でいちばん大切にしたい会社大賞
審査委員会特別賞」を受賞している。専務取締役の那波氏は、「姿勢が変われば結果が変わる」と話す。つまり、人も物事もどういう姿勢で対峙するかによって、相手の反応ややったことの結果というものは変わってくるという意味である。「どんな人も物事も変わることができる」その可能性を心から信じ、社員一人ひとりと真剣に向き合う那波氏がいた。
ここでは、那波氏のお話と、那波氏と入社12年目の社員である大谷氏、入社5年目の社員である名島氏の3人で対談した内容を紹介したい。
「僕がこの会社に入って感じたことは自分たちの『障がい』を言い訳に使う傾向があった。でも彼ら一人ひとりの経験を聞いて、それは『やむを得ない状況だった』と切に感じた」と那波氏は話してくれた。彼らのうちのほとんどは、これまで障がいを理由にしてネガティブな経験ばかりしてきた。その結果、これは障がいの特性上、出てきている癖やこだわりなのか、過去のネガティブな経験をひきずって出てきている言い訳なのか、本人も分からなくなっている。今まではどうしても自分を守るために、鎧を着ないといけない状況だった。だだ、それは人間として本能で、その状況に伴った当然の反応を人間がしてきただけと那波氏は言う。
まずは本人に、障がいのこと、自分自身の特性や性格を本人が認識できるようにする。そして、本人が納得していることが重要。「障がいゆえに苦手なものもあるが、自分は別に出来ることがある」、「こういう面では配慮が必要だ」というように。そこを本人が認め、相手も理解とそれに対する配慮をしてくれるようになれば、「自分は周りに理解されている」と感じ、自分の中でこれまでの経験もふまえて腑に落ちるようになる。このサイクルに入れば、他のこともプラスに働きやすくなるし、他者の事を客観的に見られるようになる。そうすると、他の人の特性も分かってくる。自分は自分でこういう特性があって、相手は相手でこういう特性があって。こういった経験を少しずつするようになる。時にぶつかる事もあるが、その都度「なんでだろうね」と那波氏がポジティブなフィードバックをしながら、お互いの理解の場を作っていく。さらに、そうやって考えていくこと、そういう経験のプロセスが、最終的には自分たちにとって自分たちの会社にとって良いことだという広い認識も持ってもらう。
那波氏はそのプロセスをとても丁寧に踏んでいた。心理的安全性を会社全体で保証し、ポジティブなフィードバックを通して障がい者自身が、それをサポートし合う会社自体が自信と誇りを身に付けていくのである。本人も「それについては、自分の『障がい』は関係ない」という思考に持っていくことができ、何か問題が起こったとしても、話し合いをすれば、「障がいゆえなのか」それとも「言い訳」なのかの区別が本人も冷静に見られるようになる。そうなると、問題がこじれることはなくなるので解決のスピードが速くなるそうだ。
那波氏は、障がい者雇用で悩んでいる企業にあえて「障がいのことが分かりますか?」という質問をするようだ。それは、那波氏も「分からないのはごもっとも」と思っているからである。そして、次のように言葉を続けた。「分からない事を隠す必要はなくて、分からないことは言ってしまったほうが楽ですよ。分からないけども『知りたいんだ』と(障がいのある方に)言ってください。『知りたいから一緒に考えましょう』でいいんですよ。」
一方、当事者と保護者に「(障がい等について)教えてと言われた時に言えるものを持っていますか?」と質問すると、彼らも知らない、分からないことも多い。那波氏は、障がい者にとって大切なのは、「彼らが何を経験してきて、(その経験を)どう認識してきたか。それを自分で(自分の経験や認識を)どう発信できるか」であると考えている。上述したように、障がい者自身もそれをしっかり出来ていない場合が多く、それによって障がいがさらに複雑に絡み合ってより大きな障がい(二次障がい)になることも多々ある。彼らが自分の経験を元に発信できるようになると、聞く側(会社)は非常に分かりやすく、これならできるかもと想像ができると思う。
彼らがこのような状態になるまでには、心理的安全性とポジティブなフィードバックの両軸が整って初めて可能になる。ここを間違えると、甘えやパワハラにつながってしまうこともあるのだ。
企業はこれまでのことを考えたら、いろいろな危機的状況があったと思うが、その度に対応しながら、いろいろな形で生き残ってきたと思う。そういう力量を持っているのに「障がい者雇用」となると、見えない壁に囲まれて身動きが取れないというように分からなくなっているように感じる。企業側にもこれまでした話を分かってくれる人はたくさんいる。だからこそ、「むずかしくて当たり前、分からなくて当たり前。分からない事を認めるのが大切なんですよ」と話しているそうだ。
そして、ローマは1日にして成らず、である。「一気にならないから(笑)。時間がかかるけど、少しずつできていく。でも、先ず覚悟がいる。待つし、時間がかかるけどもやる。僕たちもそれでやってきた。僕たちはここまで何年もの年月をかけてきたけど、この考え方を聞いて、もっと目の前のことが光って可能性があるのが見えると、もっとやりようがあるんじゃないかなと。僕の場合は真っ暗でしたから(笑)」と那波氏。これまで色々なことがあったのだろうと想像できるが、那波氏はどこまでも明るく、常に希望があった。
〈対談〉
那波氏:大谷君は(勤めて)12年。名島君は5年。今を見た時に、それぞれが自分の以前とどんな風に変わったのかっていうのを(話してください)。まず大谷君から。
【大谷さん】
大谷氏:個人的な変化について話します。生まれながらに聴覚障がい者ですけど、会社に入る前、人とのコミュニケーションが若干足りない部分がありました。人の話を聞いてはいるけど、内容が分からなくて、繰り返し聞くことで相手をイライラさせたり。何か分からないことがあったときに、こっちから最小限の事も聞き返さなかった。(これは)自分のちょっと歪んだ部分でした。
いろんな会社にも入ったんですけど、そこでは仕事には集中するけど、人とのコミュニケーションで理解できているものと理解できていないものが出て来て、理解できていないものを失敗したり、怒られたりとかの繰返しで、自分の中にモヤモヤしたものがずっとありました。
この会社に入って、素直に指導をもらうようになって、変化が生まれてきました。会社のチームワークに関しては、凸凹はありますし、トラブルもあります。けど、相手がどのように考えてどう受け止めるのか、思いやる心も大事です。私は耳が悪いので「繰り返し聞きます」というのを相手に知ってもらう。反対に相手の障がいを理解して、取り組んでいくことを会社全体としてみんながやっています。その中で自分の意見が少しずつ言えるようになってきました。
ここの会社の特徴は失敗しても怒らない。注意はあるかもしれません。失敗の度合いによってはきちんと受け止めていくという、(自分の)心の余裕が出来たという事ですかね。甘える事ではなくて、きちんと修正していく。マイナス要素を減らして行くように心がけていますね。
中尾:今までの事があって、少し歪んでいる部分があるとの事でしたが、この会社で働くことで自分が一番大きく変わったと思うことは何ですか?
大谷氏:何でも言えるようになりました。明るくなった。そして、人間関係にしても仕事にしても責任が持てるようになりました。
中尾:それは聞いてくれる人たちが居るという事が分かったからですか?
大谷氏:そうですね。一気にではないですけど。自分の周りに話せる人もいましたが、自分の中には怖いと思う人もいました。その人との距離感を縮めるためには、自分から(話して)いかないといけないので。私の場合はみんなと一緒にやりたいという気持ちがあるので、自分が動いている範囲の中ではコミュニケーションを取るようにしています。
那波氏:補足ね。彼の場合は耳が聞こえづらいという事を自分の中で気にしていたし、無意識の中でもコンプレックスがあって。そこの殻を破るのは、これまでの経験が何十年もあるから難しかった。でも自分は聴覚障がいがある事を受け入れることが出来るようになった。分からないときは相手に聞いても責められない、耳が聞こえなくても何とかなる。気にしなくていいという状態に少しずつ変化してきて。ここではいろいろな人と関わるから、自分以外の人の困りごとを知るようになって。その経験は彼にとって大きい。
大谷氏:自分の耳が悪いことからくる癖を直すための対策を知らなかったんですよ。要は「聞こえずに分からなかったことを、どうすれば自分が分かるか、理解できるようになるかというのを知らなかった」んです。この会社に入って、やっている人を見たり、教えてもらったりすることでコミュニケーションを成立させる方法を知りました。
親は「しっかり勉強しなさい、社会に出たら大変だよ」という抽象的な言い方で教えてくれたけど具体的には(教えてくれ)ないんですよ。それで、実際、経験して苦しんでいる。会社に入ってもやり方が分からなかった。
会社に入ってしたことは、まず自分の障がいを認める。過去に認めていなかったわけではないんですが、(周りの人に)言ってなかった。相手に自分の障がいを知ってもらって、自分から「大きい声で言ってください」と言えるようになった。環境がうるさければ、出来れば静かな所でお話ししてもらえるようにお願いするとか、それを相手が理解してくれて。うちの会社は手話をする事に全く違和感がないんですよ。なので、知っている手話を使って、表現します。自分の中でも対策して、相手にも理解してもらってやっています。
那波氏:「自分はこういう人間です」って言えてから、自分の障がいをあえて言うのは勇気というか。隠したいという思いの中で来ていた中で、「言った方が楽じゃん」と。
大谷氏:ここで経験したことが外に出た時の知らない人とのコミュニケーションにつながった。外でも通用するので、これでいいんだと(思った)。旅に出るのが好きなんですけど、行った先で(知らない人と)話すことをするようになりましたね。
中尾:それは方法を知ったから、言ったから人も分かってくれるというのが分かったからですか?
大谷氏:そうですね。
那波氏:いまの大谷さんの話聞くの面白かったろ。
名島氏:はい。
【名島さん】
名島氏:(私の)障がいは学習障がい。それが分かったのが29歳の時で、丁度前職をやめて仕事を探している時にある方と出会って、「調べてみたら?」ということで、その時に分かった。すっきりした面と親への恨みみたいなモヤモヤした思いと(があった)。「何で早く気づいてくれなかったんだ」って正直今でも思っていますし。
小学生くらいから外でのコミュニケーションが取れなくて、今でも人の言っている言葉を理解できない。文章を書くのもできなくて、読むのもできなくて、どうしても読みたい本があった時はラインマーカーを持ってずっとなぞらないと文字が頭に入ってこないんです。人と話す時も何言えばいいか分からなくて、いまだに課題はあるんですけど。
今以上に上手く行かなかった経験がずっとあった。前の仕事が、特別支援学校の支援員とか授産施設とか作業所の職員も兼任していて、利用者さんとのコミュニケーションは上手くいくんですけど、対職員となると難しいな、というのがありました。色々なきっかけがあって前職をやめて福祉関係なりの仕事を探していて、その時に(自分の)障がいが分かって障がい者枠で仕事を探し、そのときにこの会社に就職する事になりました。元々機械とかは凄く好きで、自分でもギターとかレコードとか好きで。そこでまず面接に来た時に、工場に行った時に興奮したのを今でも覚えていて、ここで働けたらいいなと。
那波氏:面接した時の事とか覚えている?
名島氏:覚えているんですけど、工場長と社長と1時間位話して。
中尾:長いですよね(笑)
名島氏:ちょっと関係ないサッカーの話とかもしましたし、僕はサッカーをしていて。この面接だけでもすごくいい経験をしたなと感じる面接でした。
中尾:どこがいいなと面接で感じたんですか?
名島氏:これまで色んな会社の面接を受けた。(ここの面接は)緊張して挑んだけど終わっている頃にはリラックスしている状態でした。未だに覚えているんですけど、マイナスなことは一つも言われなかったですね。
那波氏:この手の話は初めてしたな。面接の話は初めてだな。
名島氏:そこが凄くうれしくて。
中尾:他のところはどんなマイナスな(ことを言われたのですか)?
名島氏:そうですね。「君は資格を持っていないから」、「どうやら君は経験が少ないね」とか。「だから、駄目だね」とかそういうのは一切なかったですね。
中尾:大事ですよね。でも、他の面接でそんな酷いこと言われるんだって、びっくりしましたけどね。
名島氏:(ここに来るまで)何十社も受けました。1年半くらい受けて70社くらい目で、後日、那波専務から連絡来て、「(面接で)いい経験させていただきました。ありがとうございました」と言ったら、「うちの会社に来る気はある?」って言われてすごく嬉しかったですね。面接に来た初日にエレベーターの中で大谷さんがフランクに話しかけてくれたのを今でも覚えています。
入らせてもらったら入らせてもらったで、最初はコミュニケーションの部分で苦労しましたし、葛藤はありました。まず相手の事を知る。「自分が」ではなくて、先ず相手を知った上で、っていうことで、以前よりも「傾聴や共感が大事だな」と思いましたね。入った当時そんな風に考えなかったな、と。ほんとに、いろんなきっかけを得てここまで成長しました。(自分は)凸凹していますし、うまく行く事ばかりではないけど、修正を加えながら。僕、個人もまだまだだし、班(会社で自分が所属するグループ)もだし。気を使うというよりは相手を思いやってですね。
那波氏:面接で話した時に、「名島は人に気を使えるな」って思ったんです。でもそこに至る手前で(これまで)一杯ぶつかってきたんだろうなってあって、こいつの優しさを気づけない人はたくさんいただろうなって(思った)。(奥の優しさに触れる前に)手前のとんがった部分があったから。ぶつかりがあって、こいつの優しさが出せれば面白いだろうなって面接の時、思ってた。うちの中にいない(タイプだ)なとかね。同期のAさんとかともいろいろあったよな。
名島氏:ありましたね。意見の違いの衝突というか、彼も今は仲良いですけど、入った当初は話さなかったですし、ちょっとしたことで衝突もしました。でも話す場を重ねるうちに、相手を知って、「こういうこと思っているんだね」ってちゃんと知って、今(がある)かなと。もっと良くはなると思う。まだまだ10年後はどうなっているのかなと。一緒にやっていきたい同期です。
名島氏:僕はこの会社は一個の大きな船という感覚でいます。一人一人が持ち場を持っていて、船を動かすために邁進していると。舵をとる人もいればコンパスを動かす人もいるし、食堂で作っている人もいればボイラー室で働く人も。
中尾:チームですね。
名島氏:まだ航海の途中で、ゴールもなくて、というイメージですが。
中尾:素晴らしいですね。
— 大谷さんに名島さんの話を聞いてどうだったか聞く。自分が思っていたこと違うということを認識させている那波氏。
那波氏:大谷君どう?それを聞いて。
大谷氏:独特ですね。
名島氏:それはよく言われますね(笑)
那波氏:こういうのが嬉しいんですよ。
中尾:そうですよね、那波さんとしてはこれが嬉しいですよね。素敵ですね。
那波氏:表現はそれぞれだけど、こういうことが出てくるのが凄く嬉しいです。その喜びを感じられるから、やりがいになる。いい意味でみんなで(仕事が、職場が)まわっているなと。今日改めて(思った)、彼らがこんな風に自分のことを答えられるようになるまでいろんな出来事があって。それがだんだんと過去を振り返られるようになって。
中尾:大人になって振り返ることは苦しいことだと思うんです。なかなか人としてできないことですよね。普通の大人がないがしろにしているものを、常に出来ているんだなあと。すごいと思います。
那波氏:年月のかかることですね。
大谷氏:伝える力は大事だと思いますね。過去の話を、普通は話すことがないけれど、それをすることで自分の変化が分かる。
那波氏:障がいがあって悩んでいる人もそうでない人も、今の状態が良いと、過去の苦労は笑い話に出来るけれど、今の状態が悪いと出来ない。今が良い状態だからこそ、笑い話に出来るし、振り返ることが出来る。これは誰でも同じで、この状態にどう持っていくか、というところをうちの会社でやっている。「辛い自分があったからこそ今の自分がある」と思えれば強みになると思う。同じように悩んでいる人に、何か力になれないか、と考えることが出来ますからね。
そもそも、元々(何かができるという)能力は持っていたんですよ。「出せなかった」というだけで。力を出せるタイミングが、経験も含めてなかっただけで、他のことで一杯つまずきがでてくるから、自分が出来る部分を出せなかった、というだけの話でね。それがうちの会社の仕事をやることで少しずつ出せるようになった、と。それが自分の中での、「改めての発見」になっている。しかも障がいの関係で嫌な思いしてきて。だから変わるって難しい。
名島氏:勇気いりますよ。
中尾:そうですよね。しかも、出来なかったとかわからなかったとかいう嫌な経験がいっぱいありますもんね。「でも、それでも変わっていけるんだ」ということが分かったんですね。
名島氏:僕のように、ある程度大人になって障がいが分かって、本当に苦労している人もいると思うし。個人的な話になるんですけど、僕の嫁さんのいとこが2年前に亡くなりまして。彼も中途で知的障がいと精神障がいを持っていることが分かって。でもそれを検査したのは、亡くなる1年前とかで、やっと分かって。彼は不幸な亡くなり方をしたんですね。本当に彼はずっと苦労していて。そういった辛い思いをしている人たちを一人でも少なくできればいいなと思います。毎年、お墓参りに行くんですけど、今でも後悔は続いていて、いまだに辛いですね。
中尾:辛いお話を共有してくださってありがとうございます。大事ですよね。そうやってずっと思っていて何かの原動力になるとか。それ自体は辛いことなんだけれども、それをいい意味で次につなげていく、というのはすごくいいことだと思います。それは障がいのあるなしじゃないと思うんですよね。障がいがあると出来なくなることも多くなると思うんですけど、でもみんな多かれ少なかれあって、隠していることもあって。でもそうじゃなくて、隠さずに付き合えた時に、那波さんがいうような「お互い様」という部分があればいいな、と本当に思っているので、それはしっかり伝えていきたいと思います。ありがとうございました。
名島氏:ありがとうございました。すみません、個人的なことを話してしまって。
中尾:いえ、聞けて良かったです。いろんな思いを持っていらっしゃるんだろうな、ということと、私は子どもがいないので分からないんですけど、子育ての凄いところは、自分がやってもらいたかったことを子どもにすることによって過去の傷が癒えるんですって。例えば、親から虐待を受けていたから子どもをうまく育てられないんじゃないか、というのがあると思うんですけど、やってもらいたかったことをやってあげると癒えるよって。だから人はどこにいても挽回、というか、欠けたものを満たせる可能性はあるんだなと。過去は変えられないけれど、これからは変えられるんだな、と聞いていて思って、それをされているんだろうなと思いました。ありがとうございました。
大谷氏:ありがとうございました。失礼します。
〈対談後〉
那波氏:「変化できる力」をうちの会社が持てば、本来うちの会社を作った意味だろう、と。
中尾:すごいですよね。目標が超越してますよね。
那波氏:だからね、改めて考えた時に、つくし「更生会」という字なんですよ。「更生」させるんですよ。本人が別に悪いことしたわけではなくて、本人が自分のことに関して気付けなかったことに対して、改めて気付かせて、違う人生を歩んでもらいたい、というのがうちの会社名にある。だから「更生会」という社名にこだわっているんです。今ようやくその流れに乗っかって、変わってこられたな、と。
中尾:すごいですよね。「更生」って、私は障がい児・者福祉に尽力されてきた実践化の丸山一郎先生に学んだんですね。もう亡くなったのですが。その先生がおっしゃっていたのは、「更生って、2つの文字を繋げると、『甦る』っていう字になりますよね。だから、更生って、もともと持っていたものを甦らせるものなんだ」とおっしゃっていた。「だから、凄く良いことばなんだよ」と。「出来ないものを出来るようにするイメージが強いけど、そうではなくて、もともと持っていた力を、環境を変えることで出していけるものなんだよ」という、「希望のある言葉なんだよ」ということを言っていて。それを那波さんのお話を聞いて思い出しました。
那波氏:なるほど。だから、うちの先人たちはこの名前にこだわったんですよ。あえて障がい、というのを社名に入れる、ということもそうだし、いかにも福祉的な「更生会」という文字をこだわって入れたんです。その精神は素晴らしいと思いますね。今やっと実体を伴うようになってきたかなと思っているんですけど。
中尾:あの時代に掲げた、というのはすごいですよね。まだ、「障がいのある人たちに憐れみを」と言っていた時代に、「それでも働くんだ」という理念と掲げたというのは、やっぱり凄いですよね。
那波氏:それはやっぱり当事者が作ったのが大きかったですよね。「俺たちは世の中に悪いことをしたわけではない」と。配慮をしてもらう必要はあるにしろね。
中尾:それは障がい者だけでなく、誰しもが何かしら他者に配慮してもらっていますけどね。
那波氏:うちは大きくないけど、うちみたいにやっていると、(会社内で)難しいルールは決めなくて済む。罰則を決めなくて済む。
中尾:一人一人が個人でモチベーションを保てていると、罰則やルールはいらないですよね。
那波氏:会社を守っていくために就業規則や最低限のルールは必要ですけど、使わなくていい罰則やルールはいらない。なので、罰則を作らなくて良いようにするために、本人の努力も必要だよね、と思っている。
中尾:そうですよね。それが、今、最新の組織と言われている「ティール組織」だと思います。要は、セルフマネジメントができる組織。「信頼」が根本にあって、お互いに気にかけているので、監視をし合う悪い意味での、昔の六人制みたいなものではなく、「悩んでいる人に気づいて声を掛けてあげる」というレベルのものがティール組織だと思うんですよね。
那波氏:だから、なにか不安な時に誰かに相談できるかですよね。
中尾:『ティール組織』の本で紹介されていた法人に見学に行ったのですが、そこではよくティータイムがあるって言っていました。10時とか15時とかにお茶をして、話したい人と話す時間が当たり前にある。だからよく話すそうです。それは決して無駄な時間ではなくて、この人は今どういう状況なのか、というのを知る、理解するきっかけになっていて、それがとても重要であると説明してくれました。
那波氏:僕たちも、個人情報は大切だけれど、有給休暇等で休む時には事情をお互いに知っていた方が下手に疑わなくて良いよね、としています。細かいことを言う必要はないですけど、「それは大変だね、あとは俺たちがしておくから」って協力しやすくなると思うんです。なので、差支えのないレベルで言うようにしています。変なわだかまりが無くて良い。色んな事情があってお互いに休むことはありますからね。
中尾:私達ってものすごく大変な時代に生きているんではないかと思っています。つまり、「大事にしないといけない価値観って『物質』だけじゃなかったんだ」っていう時代。そうなると、その価値観は目に見えないし、種類も量も多いし、人によって違う、という未知なる空間に投げ出されたような状態。しかも、これまで物質的な価値観が是とされ、その中である程度上手く生活できて来られた人たちによって育てられているので、今の価値の転換や拡大期の狭間にいて、いろいろ難しいところにいるんですよね。
那波氏:そう。昔は『精神』みたいなものが大切にされていて、でも経済成長とともに欧米化されて思考が変化してきて、目に見えるものだけしか評価されない状態になってきて、今また「昔のことを思い出さないといけない」となってきていて。そのバランスをとる、ということをやっていかないといけないんですけど、それらが相対するもので、物質的なものと精神的なものを両立できない、と考えている人もいて。そういう社会状況になってしまっているんですよね。それをやはり「バランスをとろうよ」という方向に作りかえないといけない。
中尾:すごく時間がかかることですよね。物質的豊かさを手に入れた後、生産性の捉え方や豊かさや価値観の多様性とか、結果、「豊かな生活」がどういうものかは、各々が手探りで探しているようにも思います。
那波氏:でも、本来はそれが「福祉」なんじゃないの、と僕は思うんです。
中尾:なるほど。それは、「豊かさ」ですよね。人はおそらくこういう風に生きていくと幸せを感じるし、「豊かな生活だ」と思えること。これは障がいのあるなしに関わらずみんなに共通したものなんですよ、ということですね。
那波氏:そう。今、「福祉」とみんなが考えている、狭義のイメージの話をするときには、「福祉」と違う言葉を使った方がよかったんじゃないかなと思うんですよ。「福祉」という言葉はもっと大きな意味があるのに、多くの人がイメージする「福祉」は一般的に狭義の意味の、「社会的弱者専用の言葉」みたいになってしまった、とずっと思っているんです。
那波氏:そう。ヨーロッパから福祉の概念が入ってきても、日本人はその概念の意味をよく理解できないまま来ているから、そのひずみが今もずっとあるんですよね。
中尾:そうですよね。自立するって、「サポートを受けずになんでも自分で出来るようになること」って思われることがありますけど、絶対にそんなことはなくて、生きている限りみんなに迷惑をかけるし。ただ大事なのは、「自分が余裕があるときに困っている人がいたら助ける。だから、プラスマイナスはゼロなんだ」っていう風に考えられるのがすごい大事。でもそのことを教わってきていないですからね、子どもの頃に。
那波氏:そうだよね。でもそういうのが「お互い様」という言葉で、それが当たり前のように使われてきたのに、最近あまり使われなくなった。今は「ウィンウィン」という意味での使われ方が多いと思う。でも僕の中ではやっぱり「お互い様」なんですよね。
中尾:そうですよね。今日は大切なことを改めて考えるきっかけをいただいたように思います。どうもありがとうございました。
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